仲原善忠文庫
本来「薩琉往復文書集古写本」との名が付されていたが、内容の点から「琉球館文書」へ改題することが仲原善忠によって示された。
Very important historical materials since this collection of records contains本来「薩琉往復文書集古写本」との名が付されていたが、内容の点から「琉球館文書」へ改題することが仲原善忠によって示された。
Very important historical materials since this collection of records contains本来「薩琉往復文書集古写本」との名が付されていたが、内容の点から「琉球館文書」へ改題することが仲原善忠によって示された。
Very important historical materials since this collection of records contains本来「薩琉往復文書集古写本」との名が付されていたが、内容の点から「琉球館文書」へ改題することが仲原善忠によって示された。
Very important historical materials since this collection of records contains久米島の最高級神女「君南風(きみはえ・チンベー)」の由来・位階(階級・身分)・公事(政務・儀式)について記した文献である。
This document described the origins of the highest-ranking priestess “Kimihae成立は、寛保3(1743)年にまとめられたものと見られ、関連する『久米仲里旧記』より40年後のことである。
This document is believed that it was edited in 1743.昭和11(1936)年久米島仲里の某家から発見されたものである。表紙も奥書もなく、順序も入り乱れ反古同様のものであった。
In the year of 1936, it was some house at Nakazato in Kume island that the do「支那冊封使来琉諸記」(上巻)との名称が付されているが表題横に元治元(1864)年との書き込みがなされている。
The title that reads "The Record of Sakuhoshi delegates from China 1st volume「支那冊封使来琉諸記」(下巻)との名称が付されているが表題横に元治元(1864)年との書き込みがなされている。
The title that reads "The Record of Sakuhoshi delegates from China 1st volume1732年11月に、当時の摂政・三司官の連名で評定所から出された文書。蔡温(具志頭親方)が立案し発布したものとして有名である。
The documents issued from Hyojosho(administrative office) under the name of S仲原が昭和21(1946)年11月に伊波普猷所蔵本を筆写したものである。内容は、聞得大君(琉球国の最高級神女)に関わる年間祭祀を箇条書きに示している… This manuscript was written in November 1946 by Nakahara from the book that I
乾隆53(1788)年に平等方(警察・司法を司る)が協議したものを久米島の仲里間切へ通達した史料である。
This document was discussed and issued in 1788 at the Hiraho/ Hirajo( law enf1830年ごろまでの琉球の概要と制度を薩摩に報告するために作成された史料と見られる。
This is a document that descreibes the brief overviews and institutions of Ry慶応2(1866)年に琉球に渡来した冠船(冊封使を乗せた船)に関する公文書類の写本(全9冊)としてまとめられたもので、本史料は第6冊目にあたる。
A total of nine-volume copies of the official document concerning the event w表題は「(仮)琉球来聘志天保十三年」と書かれた天保13(1842)年の江戸上りに関連すると思われる。
From the title that reads "Ryukyu Raiheishi Tenpo 13", it is considered as re明治21(1888)年8月に那覇糖商組合事務所が刊行した砂糖製造に関する冊子。
This booklet is concerned with sugar manufacturing.江戸時代後期の江戸幕府御家人で国学者であった屋代弘賢(宝暦8(1758)年~天保12(1841)年)が、寛政9(1797)年、… This document was written by Yashiro Hirokata(1758-1841) in the late Edo peri
明治29(1896)年に、沖縄県(殊に本島)における土地売買がなぜに高額を要するものであるのかを究明するよう、祝収税部長が部下である川畑・… In 1896, both Kawabata and Iji were assigned the duties to investigate the re
1879年の琉球処分、すなわち琉球藩から沖縄県へという廃藩置県を経て行われた旧慣温存政策に関わる史料である。明治15(1882)年4月18日の日付がある… This is a document related to 'Kyūkan Onzon Seisaku (Retainment the old syste
表題に「辰四月九日波平村東リ百次之当間にや宅へ相揃銅銭五拾貫文現銭持参書留帳」とあり、光緒6(1880)年の年代を持つ。
This is one of the few historical documents to learn the system of Moai which表題に「辰四月九日波平村東リ百次当間にや宅相揃候銅銭五拾貫文模合面立并番居模居シ印帳」とあり、「模合帳」(一)と同じ光緒6(1880)年のものである… This historical document that tells of the practice of Moai conducted in Yomi
「模合帳」と仮題が付された短い史料であるが、計32名の名前が列記されているだけで、性格は不明。
Tentatively titled "Moaicho", a brief document listing the names of 32 people久米島仲里間切に属する東海岸にある真謝村に関する史料である。内容は、江戸時代禁制となっていたキリシタン(切支丹)の宗教改めとして作成されたものである… It is a document notified in 1788, provided the rule for crime due to theft a
程順則(名護親方)が康煕47(1708)年に福州の琉球館で上梓したもので、那覇―福州間を往来する貢船に供する航海法・海図・天妃関連の情報が記述されている… This book was published by Tei Junsoku(Nago Ueekata) in 1708 at the Ryukyu Ka
「おもろさうし」は、12~17世紀ごろにかけて謡われた各地のオモロを首里王府が採録し編集した沖縄最古の歌謡集(全二十二巻)である。
The Omoro Soshi is the Okinawa’s oldest collection of songs which was recorde「おもろさうし」は、12~17世紀ごろにかけて謡われた各地のオモロを首里王府が採録し編集した沖縄最古の歌謡集(全二十二巻)である。
The Omoro Soshi is the Okinawa’s oldest collection of songs which was recorde「おもろさうし」は、12~17世紀ごろにかけて謡われた各地のオモロを首里王府が採録し編集した沖縄最古の歌謡集(全二十二巻)である。
The Omoro Soshi is the Okinawa’s oldest collection of songs which was recorde「おもろさうし」は、12~17世紀ごろにかけて謡われた各地のオモロを首里王府が採録し編集した沖縄最古の歌謡集(全二十二巻)である。
The Omoro Soshi is the Okinawa’s oldest collection of songs which was recorde「おもろさうし」は、12~17世紀ごろにかけて謡われた各地のオモロを首里王府が採録し編集した沖縄最古の歌謡集(全二十二巻)である。
The Omoro Soshi is the Okinawa’s oldest collection of songs which was recorde「おもろさうし」は、12~17世紀ごろにかけて謡われた各地のオモロを首里王府が採録し編集した沖縄最古の歌謡集(全二十二巻)である。
The Omoro Soshi is the Okinawa’s oldest collection of songs which is recorded「おもろさうし」は、12~17世紀ごろにかけて謡われた各地のオモロを首里王府が採録し編集した沖縄最古の歌謡集(全二十二巻)である。
The Omoro Soshi is the Okinawa’s oldest collection of songs which was recorde「おもろさうし」は、12~17世紀ごろにかけて謡われた各地のオモロを首里王府が採録し編集した沖縄最古の歌謡集(全二十二巻)である。
The Omoro Soshi is the Okinawa’s oldest collection of songs which was recorde「おもろさうし」は、12~17世紀ごろにかけて謡われた各地のオモロを首里王府が採録し編集した沖縄最古の歌謡集(全二十二巻)である。
The Omoro Soshi is the Okinawa’s oldest collection of songs which was recorde「おもろさうし」は、12~17世紀ごろにかけて謡われた各地のオモロを首里王府が採録し編集した沖縄最古の歌謡集(全二十二巻)である。
The Omoro Soshi is the Okinawa’s oldest collection of songs which was recorde「おもろさうし」は、12~17世紀ごろにかけて謡われた各地のオモロを首里王府が採録し編集した沖縄最古の歌謡集(全二十二巻)である。
The Omoro Soshi is the Okinawa’s oldest collection of songs which was recorde「おもろさうし」は、12~17世紀ごろにかけて謡われた各地のオモロを首里王府が採録し編集した沖縄最古の歌謡集(全二十二巻)である。
The Omoro Soshi is the Okinawa’s oldest collection of songs which was recorde『質問本草』は一般的には呉継志の著とされる。
Shitsumon Honzo was believed to be written by Go Keishi, or Shimabukuro Kenki『質問本草』は一般的には呉継志の著とされる。
Shitsumon Honzo was believed to be written by Go Keishi, or Shimabukuro Kenki『質問本草』は一般的には呉継志の著とされる。
Shitsumon Honzo was believed to be written by Go Keishi, or Shimabukuro Kenki『質問本草』は一般的には呉継志の著とされる。
Shitsumon Honzo was believed to be written by Go Keishi, or Shimabukuro Kenki『質問本草』は一般的には呉継志の著とされる。
Shitsumon Honzo was believed to be written by Go Keishi, or Shimabukuro Kenki本史料は、1609年に行われた島津氏による琉球侵攻を題材にして創作された軍記物語である。成立は、18世紀前半とみられ数多くの異本が伝来している。
This material is a military epic novel based on the incident of Satsuma invas本史料は、1609年に行われた島津氏による琉球侵攻を題材にして創作された軍記物語である。成立は、18世紀前半とみられ数多くの異本が伝来している。
This material is a military epic novel based on the incident of Satsuma invas本史料は、1609年に行われた島津氏による琉球侵攻を題材にして創作された軍記物語である。成立は、18世紀前半とみられ数多くの異本が伝来している。
This material is a military epic novel based on the incident of Satsuma invas本史料は琉球人行列を題材にした数え歌形式の手まり歌を印刷したもの。琉球人行列やその見物の人々の様子を歌にしている。
This is a collection of songs in printed form focusing on the processions of雅文集。表紙や奥付が無く、筆写者及び筆写年は不明である。
A collection of classic style of literature.楊文鳳(嘉味田親雲上兆祥)の漢詩集(全三巻)。文化3(1806)年に薩摩・大阪の書店が共同で出版した。楊文鳳は、首里赤平の出身。
Shichido shiko: A collection of Chinese poetry of Yo Bun-ho (Kamida Pechin Ch徳川将軍の襲職を祝い派遣される江戸上り(江戸立ち)に関する史料である。
This is a document that recorded the dispatch of an envoy to celebrate the su本文の冒頭は「大日本土佐国漁師漂流記」となっており、肥前長嵜(今の長崎県)鈍通子記録となっている。
A fisherman called Manjiro from Shikoku was washed down off the Tosa to the d琉球王国(また、琉球藩)における租税制度の把握を企図して県庁収税部の川畑徴志が依頼して作成させた未定稿の文書である。
This is an unfinished document which Kawabata Choshi from Okinawa prefectural小学校の地理教科書。沖縄師範学校が作成した稿本を修正委員が見直し、更に校訂したもの。
The geography textbook for elementary students.琉球産物方の弘化4(1847)年~嘉永2(1849)年における収支報告書である。
The business reports of Ryukyu Sanbutsu kata( Ryukyu Products management offi『日本民俗学大系』12巻奄美・沖縄の民俗、比較民俗学的諸問題(平凡社、1959)に所収されている仲原善忠の論文の抜き刷りである。
This text was originally a part of Nakahara's articles compiled in “Nihon Min『日本民俗学大系』12巻奄美・沖縄の民俗、比較民俗学的諸問題(平凡社、1959)に収録されている仲原善忠の論文抜き刷りである。
This text was originally a thesis recorded in “Nihon Minzokugaku Taikei vol.1琉球処分官松田道之が著した『琉球処分』全3冊(1879年)の草稿の一部である。
This is part of the book"Ryukyu Shobun "(3-volumes 1879) that Matsuda Michiyu本史料は、1908~1911年、久米島の状況について検事正大井七郎の質疑に答えるかたちで久米島警察署長池口権四郎が作成したものである。
This is a document that Ikeguchi Genshiro, the Chief of the police station in本史料は袋中上人が1603~1606年に那覇に滞在したおりの見聞を著したもので、島津侵入事件(1609年)… This is documents that Japanese priest named Taichu wrote about his experienc
本史料は袋中上人が1603~1606年に那覇に滞在したおりの見聞を著したもので、島津侵入事件(1609年)… This is documents that Japanese priest named Taichu wrote about his experienc
1840(尚育6・道光20)年に挙行された聞得大君(きこえおおきみ:琉球最高神女)の就任儀礼「御新下(おあらおり)」に関する記録。
This is a record related to the accession ceremony of the Kikoeōkimi , the su1840(尚育6・道光20)年に挙行された聞得大君(きこえおおきみ:琉球最高神女)の就任儀礼「御新下(おあらおり)」に関する記録。
This is a record related to the accession ceremony of the Kikoeōkimi , the su1840(尚育6・道光20)年に挙行された聞得大君(きこえおおきみ:琉球最高神女)の就任儀礼「御新下(おあらおり)」に関する記録。
This is a record related to the accession ceremony of the Kikoeōkimi , the su本史料は琉球の石高の内、首里王府が持つ財政収支を記したもので編者等は不明、康熙61(1728)年頃の状況を第一巻(収入)、第二巻(支出)… This item, consisting of two volumes, contains a detailed record of the fisca
仲原善忠「湛水親方の名誉のために」(「琉球新報」1956年6月4日~16日、全12回連載)の新聞切抜きである。
A collection of newspaper cut-outs titled “Tansui Oyakata no Meiyo no Tameni”本史料は、琉球人の江戸上り(江戸立ち)に際し、江戸で刊行された琉球物刊本である。
This is a book published in Edo in the wake of Edo nobori(Procession of Ryuky「おもろさうし」は、12~17世紀ごろにかけて謡われた各地のオモロを首里王府が採録し編集した沖縄最古の歌謡集(全二十二巻)である。
The Omoro Soshi, the oldest anthologies of the Okinawan poetry compiled by th「おもろさうし」は、12~17世紀ごろにかけて謡われた各地のオモロを首里王府が採録し編集した沖縄最古の歌謡集(全二十二巻)である。
The Omoro Soshi, the oldest anthologies of the Okinawan poetry compiled by th「おもろさうし」は、12~17世紀ごろにかけて謡われた各地のオモロを首里王府が採録し編集した沖縄最古の歌謡集(全二十二巻)である。
The Omoro Soshi, the oldest anthologies of the Okinawan poetry compiled by th「おもろさうし」は、12~17世紀ごろにかけて謡われた各地のオモロを首里王府が採録し編集した沖縄最古の歌謡集(全二十二巻)である。
The Omoro Soshi, the oldest anthologies of the Okinawan poetry compiled by th「おもろさうし」は、12~17世紀ごろにかけて謡われた各地のオモロを首里王府が採録し編集した沖縄最古の歌謡集(全二十二巻)である。
The Omoro Soshi, the oldest anthologies of the Okinawan poetry compiled by thおもろさうし」は、12~17世紀ごろにかけて謡われた各地のオモロを首里王府が採録し編集した沖縄最古の歌謡集(全二十二巻)である。
The Omoro Soshi, the oldest anthologies of the Okinawan poetry compiled by thおもろさうし」は、12~17世紀ごろにかけて謡われた各地のオモロを首里王府が採録し編集した沖縄最古の歌謡集(全二十二巻)である。
The Omoro Soshi, the oldest anthologies of the Okinawan poetry compiled by thおもろさうし」は、12~17世紀ごろにかけて謡われた各地のオモロを首里王府が採録し編集した沖縄最古の歌謡集(全二十二巻)である。
The Omoro Soshi, the oldest anthologies of the Okinawan poetry compiled by thおもろさうし」は、12~17世紀ごろにかけて謡われた各地のオモロを首里王府が採録し編集した沖縄最古の歌謡集(全二十二巻)である。
The Omoro Soshi, the oldest anthologies of the Okinawan poetry compiled by thおもろさうし」は、12~17世紀ごろにかけて謡われた各地のオモロを首里王府が採録し編集した沖縄最古の歌謡集(全二十二巻)である。
The Omoro Soshi, the oldest anthologies of the Okinawan poetry compiled by thおもろさうし」は、12~17世紀ごろにかけて謡われた各地のオモロを首里王府が採録し編集した沖縄最古の歌謡集(全二十二巻)である。
The Omoro Soshi, the oldest anthologies of the Okinawan poetry compiled by thおもろさうし」は、12~17世紀ごろにかけて謡われた各地のオモロを首里王府が採録し編集した沖縄最古の歌謡集(全二十二巻)である。
The Omoro Soshi, the oldest anthologies of the Okinawan poetry compiled by th本史料は、天保3(1832)年に琉球使節を紹介する目的で刊行された版本である。本来は折り本形式だった冊子を、和綴じに綴りなおしている。
"This material was published in order to introduce the Ryukyuan envoys.本史料は天保15(1844)年に東都書肆から板行された漢詩集(全三巻)である。
"Toyuso" is an anthology of Chinese poetry published by Totoshoshi in 1844.本史料は天保15(1844)年に東都書肆から板行された漢詩集(全三巻)である。
"Toyuso" is an anthology of Chinese poetry published by Totoshoshi in 1844.本史料は天保15(1844)年に東都書肆から板行された漢詩集(全三巻)である。
"Toyuso" is an anthology of Chinese poetry published by Totoshoshi in 1844.『琉球国志略』は、乾隆20(1755)年に琉球国王世子尚穆を冊封するため正使全魁と共に来琉した冊封副使周煌が、1757年に皇帝に献上した報告書である… " Ryūkyū Koku Shiryaku" is a group of documents providing an overview of Ryuk
『琉球国志略』は、乾隆20(1755)年に琉球国王世子尚穆を冊封するため正使全魁と共に来琉した冊封副使周煌が、1757年に皇帝に献上した報告書である… " Ryūkyū Koku Shiryaku" is a group of documents providing an overview of Ryuk
『琉球国志略』は、乾隆20(1755)年に琉球国王世子尚穆を冊封するため正使全魁と共に来琉した冊封副使周煌が、1757年に皇帝に献上した報告書である… " Ryūkyū Koku Shiryaku" is a group of documents providing an overview of Ryuk
『琉球国志略』は、乾隆20(1755)年に琉球国王世子尚穆を冊封するため正使全魁と共に来琉した冊封副使周煌が、1757年に皇帝に献上した報告書である… " Ryūkyū Koku Shiryaku" is a group of documents providing an overview of Ryuk
『琉球国志略』は、乾隆20(1755)年に琉球国王世子尚穆を冊封するため正使全魁と共に来琉した冊封副使周煌が、1757年に皇帝に献上した報告書である… " Ryūkyū Koku Shiryaku" is a group of documents providing an overview of Ryuk
『琉球国志略』は、乾隆20(1755)年に琉球国王世子尚穆を冊封するため正使全魁と共に来琉した冊封副使周煌が、1757年に皇帝に献上した報告書である… " Ryūkyū Koku Shiryaku" is a group of documents providing an overview of Ryuk
江戸時代の学者・政治家新井白石が著した体系的で近世最高の沖縄研究書。享保4(1719)年に脱稿。
"Nanto shi" was written by Arai Hakuseki who was a scholor and politician dur本史料は、明治4(1871)年から同12(1879)年に至るまでの琉球処分の経過を記したものである。
"Ryukyu Shobun Teiko" recorded the course of the incident of Japan's Annexati1609年の島津侵入以後、琉球では、徳川将軍の代替わり(就職)の際には慶賀使、琉球国王代替わりの際には謝恩使を江戸へ派遣し、これを「江戸立ち」… Since the invasion by Shimazu Satsuma clan in 1609, Ryukyu sent missions of c
本史料は、嘉永三(1850)年に尚泰王即位の謝恩として派遣された使節琉球使節の行列を絵にしたものである。人名や持ち道具なども記されている。
In Edo period, Ryūkyū side sent Keigashi when Tokugawa succeeded to a shogun,本史料は天保3(1832)年に尚育王即位の謝恩として派遣された琉球使節の行列絵である。人名や持ち道具なども記されている。
In this document, the drawings of Ryukyuan procession who were the gratitude本史料は天保13(1842)年に徳川家慶の将軍就任の慶賀使として派遣された琉球使節の行列絵である。版元は丸屋甚八、絵師は渓斎英泉。
This document contains drawings of Ryukyuan procession that were on gratitude「琉球人大行列記」は、寛延元(1748)年から文化3(1806)年までの半世紀あまりのうちに、7度にわたり11種が重版されている。
"Ryukyujin Daigyouretsu Ki (Long Procession of Ryukyuan )" was reprinted seve「琉球人大行列記」は江戸時代を通じて刊行され続けるが、なかには同一の版木・書名を用いて刊行されている物が存在する。
"Ryukyujin Daigyoretsu Ki (Long Procession of Ryukyuan )"was reprinted over m本史料は、天保3(1832)年に尚育王の即位に際し、謝恩を述べるために江戸に派遣された琉球使節の帰国時に関連する記録である。
This is a document that reports Ryukyuan envoy on gratitude mission in 1832 t本史料は、嘉永3(1850)年に琉球最後の国王となる尚泰の即位を謝恩する使節の江戸上り(江戸立ち)に関連するものである。
This document records the Ryukyuan envoys that were on gratitude missions to本史料は、薩摩と共に徳川将軍の襲職を慶賀するために派遣された江戸立ちに関するものである。
This document is for recording the Ryukyuan envoys that were on gratitude mis本史料は、薩摩と共に徳川将軍の襲職を慶賀するために派遣された江戸立ちに関するものである。
This document is for recording the Ryukyuan envoys that were on gratitude mis本史料は、薩摩と共に徳川将軍の襲職を慶賀するために派遣された江戸立ちに関するものである。
This document is for recording the Ryukyuan envoys that were on gratitude mis本史料は、薩摩と共に徳川将軍の襲職を慶賀するために派遣された江戸立ちに関するものである。
This document is for recording the Ryukyuan envoys that were on gratitude mis本史料は、宝永7(1710)年に派遣された徳川家宣の将軍就任への慶賀と尚益の即位に対する謝恩使に関連する記録である。
This document records the missionaries dispatched in 1710 of gratitude (Shaon本史料は、大正9(1920)年3月に書かれたものである。
Iōtori Island had been in eruption frequently and the eruption occured in Apr本史料は、近世琉球時代を代表する学者・政治家の蔡温が著した「自叙伝」「農務帳」「家内物語条々」を収録したものである。
This is a collection of essays of Saion who is the most renown academian and本史料冒頭には、表題として「過眼掌記」と記されているが、詳細な内容は不明である。
At the beginning of the document, it is written as "Kagan Shoki"although its本史料は菊池幽芳が明治41(1908)年に著したものである。
“Ryukyu and Tametomo” was published by Kikuchi Yuho in 1908.本史料は、久米島の喜久里家に伝わる家譜の一種で「元祖由来記」(巫馬姓家譜)とも称される。
This is a genealogy which was handed down by Kikuzato Family, in Kumejima isl本史料は首里系士族麻姓の家譜を筆写しガリ版刷りによって刊行したものである。
Mimeographed copy of lineage tree of Ma family who was warrior-class and resi本史料 は、明治19(1886)年に刊行されたもので、内編(上・中・下の三冊)と外編(乾・坤の二冊)からなる。
"Nanto Kiji"was published in 1886, consists of three sections of Naihen ( fir本史料は、明治19(1886)年に刊行されたもので、内編(上・中・下の三冊)と外編(乾・坤の二冊)からなる。
Nanto Kijiwas published in 1886, consists of three sections of Naihen ( first『南島紀事』は、明治19(1886)年に刊行されたもので、内編(上・中・下の三冊)と外編(乾・坤の二冊)からなる。
Nanto Kijiwas published in 1886, consists of three sections of Naihen ( first本史料は、マカレー東本願寺住職で沖縄出身の玉代勢法雲が1952年6月からホノルルのKAHU放送局にて行った同タイトル(8回シリーズ)… This document was published by the Okinawan-born Buddhist priest Tamayose Hou
本史料は康熙60(1721)年に、中山王世子尚敬を冊封するために来琉した冊封副使徐葆光が著したものである。
"Chuzan Denshinroku" was authored by Xu Bao Guang in 1721 who came to Ryukyu本史料は康熙60(1721)年に、中山王世子尚敬を冊封するために来琉した冊封副使徐葆光が著したものである。
"Chuzan Denshinroku" was authored by Xu Bao Guang in 1721 who came to Ryukyu本史料は康熙60(1721)年に、中山王世子尚敬を冊封するために来琉した冊封副使徐葆光が著したものである。
"Chuzan Denshinroku" was authored by Xu Bao Guang in 1721 who came to Ryukyu本史料は康熙60(1721)年に、中山王世子尚敬を冊封するために来琉した冊封副使徐葆光が著したものである。
"Chuzan Denshinroku" was authored by Xu Bao Guang in 1721 who came to Ryukyu本史料は康熙60(1721)年に、中山王世子尚敬を冊封するために来琉した冊封副使徐葆光が著したものである。
"Chuzan Denshinroku" was authored by Xu Bao Guang in 1721 who came to Ryukyu本史料は康熙60(1721)年に、中山王世子尚敬を冊封するために来琉した冊封副使徐葆光が著したものである。
"Chuzan Denshinroku" was authored by Xu Bao Guang in 1721 who came to Ryukyu本史料は、琉球王国時代および旧慣温存期における租税制度についての調査報告書で、明治28(1895)年に、沖縄県庁によって刊行された。
This historical document is an investigative report about the conventional ta本史料は、沖縄県商工課長であった石澤兵吾が、首里王府貝摺奉行所から引き継いだ漆器の図案や仕様帳をもとに編纂したもので明治22年に出版された。
Published in 1889 by Ishizawa Hyogo who was the head of the commerce and indu本書は伊地知貞馨(いじちさだか)によって明治11(1877)年に刊行されたものである。
This document was published by Ijichi Sadaka in 1877.本史料は、伊地知貞馨(いじちさだか)によって明治10(1877)年刊行の『沖縄誌』(『琉球誌』ともいう)の第一巻(前五巻本)である。
This document is the first volume of "Okinawa-shi (Ryukyu-shi) "which was pub本史料は、伊地知貞馨(いじちさだか)によって明治10(1877)年刊行の『沖縄誌』(『琉球誌』ともいう)の第二巻(前五巻本)である。
This document is the first volume of "Okinawa-shi (Ryukyu-shi) "which was pub本史料は、伊地知貞馨(いじちさだか)によって明治10(1877)年刊行の『沖縄誌』(『琉球誌』ともいう)の第三巻(前五巻本)である。
This document is the first volume of "Okinawa-shi (Ryukyu-shi) "which was pub本史料は、伊地知貞馨(いじちさだか)によって明治10(1877)年刊行の『沖縄誌』(『琉球誌』ともいう)の第四巻(前五巻本)である。
This document is the first volume of "Okinawa-shi (Ryukyu-shi) "which was pub本史料は、伊地知貞馨(いじちさだか)によって明治10(1877)年刊行の『沖縄誌』(『琉球誌』ともいう)の第五巻(前五巻本)である。
This document is the first volume of "Okinawa-shi (Ryukyu-shi) "which was pub『南島紀事』は、明治19(1886)年に刊行されたもので、内編(上・中・下の三冊)と外編(乾・坤の二冊)からなる。
"Nanto Kiji"was published in 1886, consists of three sections of Naihen and t『南島紀事』は、明治19(1886)年に刊行されたもので、内編(上・中・下の三冊)と外編(乾・坤の二冊)からなる。
"Nanto Kiji"was published in 1886, consists of three sections of Naihen and t本史料は大田南畝によって著された書物で、天保3(1832)年の刊行と見られる。
This document was written by Ota Nanpo, and published in 1832.「琉球談(りゅうきゅうばなし)」は森島中良が寛政2(1790)年に上梓した書物で、内容は為朝渡琉伝説に注目し、日本と琉球の関りや風俗について記している… “Discourse on Ryukyu” (Ryukyu Banashi) is a book written by Morishima Churyo
「琉球談(りゅうきゅうばなし)」は森島中良が寛政2(1790)年に上梓した書物で、内容は為朝渡琉伝説に注目し、日本と琉球の関りや風俗について記している… “Discourse on Ryukyu” (Ryukyu Banashi) is a book written by Morishima Churyo
明治6(1873)年に大槻文彦によって上梓された上下二巻本の書物。大槻文彦は国語辞典『大言海』の著者として知られ、明治・大正期を代表する国語学者である… This is a two-volume book authored by Ōtsuki Fumihiko and published in 1873.
明治6(1873)年に大槻文彦によって上梓された上下二巻本の書物。大槻文彦は国語辞典『大言海』の著者として知られ、明治・大正期を代表する国語学者である… This is a two-volume book authored by Ōtsuki Fumihiko and published in 1873.
本史料は1706~13年ごろの成立と考えられるが、その内容は古琉球期以来の神女にかかわるもので比較的古い内容を含むと見られる。
This document was believed to be created around 1706-1713.本史料は1706~13年ごろの成立と考えられるが、その内容は古琉球期以来の神女にかかわるもので比較的古い内容を含むと見られる。
This document was believed to be created around 1706-1713.本史料は、「女官御双紙 近習方」とあるが、内容は「聞得大君御殿並御城御規式之御次第」である。
This document was believed to be created around 1706-1713.首里王府の命で編纂された『宮古島旧記』に関連する史料の筆写本である。
This is a copy and pertinent document of "Miyako-jima Kyuki" which was compil